作曲家データベース

モーツァルト
宮廷作曲家であった父の教育で3歳からチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲される。父とともに音楽家として宮廷に仕える一方で、何度もウィーン,パリ,ロンドン,イタリア各地に大旅行を行っており、ほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けている。1777年にザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移り、マンハイム楽派の影響を受けることとなる。25歳の時ウィーンに定住を決意し、以降フリーの音楽家として演奏会,オペラの作曲,レッスン,楽譜の出版などで生計を立てていた。
ベートーヴェン
日本では「楽聖」とも呼ばれる、音楽史上極めて重要な作曲家の一人である。ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手かつ鍵盤楽器奏者として知られ、当人も1778年にケルンでの演奏会に出演し、デビューを果たす。1792年にウィーンに渡って徐々に名声をあげていき、1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。40歳頃には全聾となり、その後も肺炎,黄疸を併発するなど病状が急激に悪化。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま肝硬変のため波乱に満ちた生涯を閉じた。
チャイコフスキー
5歳からピアノを習い始め音楽的才能を示したが両親には音楽家にする意志はなく、法律学校に入学。その後、23歳の時に法務省の職を辞して音楽に専念することになる。1865年にペテルブルク音楽院を卒業し翌年モスクワへ転居、帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で教鞭をとる。1878年、作曲に専念するために12年間勤めた講師を辞職し、それから約10年間、フィレンツェやパリ,ナポリ,カーメンカなどヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。1893年、交響曲第6番『悲愴』が自身による指揮で初演。それから9日後の11月6日に急死。
リスト
父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていた。1823年ウィーンでコンサートを開いた際、老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。1838年のドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い多額の災害救助金を寄付しているほか、ピアニストとして当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したなどの逸話も残る。交響詩の創始者としても知られ、ピアニストでありながら作曲家,指導者,評論家など教育活動においてもピアニズムの発展に貢献した。
バッハ
バロック音楽の重要な作曲家の一人で、日本の音楽教育では「音楽の父」と称される。1703年、宮廷楽団に就職し、オルガンで優れた演奏を披露、そのまま同教会のオルガニストの地位を提示される。1717年にはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長に就任、1736年からはザクセンの宮廷作曲家に任命される。晩年は、内障眼が悪化し視力はほぼ失われており、その後も2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療で病床に伏し、65歳でこの世を去った。
ベルリオーズ
14歳の頃、父親がフルートを買い与える。その後15歳からはギターも習い始め、作曲も同年頃に独学で学び始める。1821年に家業を継ぐ名目で医科大学に入学するも、医学の道を捨てて1823年にパリ音楽院に入学する。音楽院に入学して7年後、4度目の挑戦にして初めてローマ賞を受賞。その後2度の婚約破棄を経てパリで結婚。人気が落ち込むと、その後はウィーン,ブタペスト,ドイツ,ロシアなどに趣き、海外での公演を成功させる。その後も苦労を重ねながら精力的に活動を行い、60歳で筆を置くまで名作を残し続ける。
ハイドン
音楽学校の校長をしていた叔父に音楽の才能を認められ、6歳から音楽の勉強を始める。1761年、西部ハンガリー有数の大貴族エステルハージ家の副楽長となり、楽団の拡充につとめるとともに、30年近くもの間エステルハージ家で働きながら数多くの作品を書いた。1791年からイギリスでの新しい交響曲とオペラの上演が大成功、同時期に改めてエステルハージ家の楽長に就任した。その頃にはウィーン郊外に家を建てており、晩年はここで暮らす。
シベリウス
7歳から叔母にピアノを教わり始め、10歳の時に叔父からヴァイオリンを買い与えられる。高校卒業後、ヘルシンキ音楽院に転入し音楽を学ぶ。その後はベルリン,ウィーンなどで研鑽を積み、当時は作曲よりもヴァイオリンの実力が評価されていた。次第に作曲活動に重きをおくようになり、以降も様々な国で活発に作曲,指揮を行う。フィンランドへ帰国後はヘルシンキ音楽院の作曲講師に就任、精力的に祖国に基づく作品を作り上げ、国民的作曲家として誰もが知る存在となる。
エルガー
エルガー家の子どもたちは皆 音楽を教え込まれており、当人も8歳までにピアノとヴァイオリンのレッスンを受けていた。22歳で養護施設付属楽団の指揮者の職に就く。1889年にピアノの教え子であったキャロライン・アリス・ロバーツと結婚。その後、代表作『エニグマ』変奏曲がハンス・リヒターの指揮によって初演され、当時既に42歳だったエルガーは世の注目を集める。1920年に夫人と死別してからは創作意欲を失い、指揮者,演奏家としての活躍に重心を移す。晩年再び大作の作曲活動に挑むも、いずれも完成させることなく1934年に世を去る。
スメタナ
オーストリア=ハンガリー帝国によって支配されていたチェコの独立国家への願望、チェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者。スメタナが作り上げた芸術の基礎にあるものは、民族主義とリアリズム、ロマン主義であり、後期のすべての音楽の中に通じる特徴として、叙情的な性質を挙げることができる。オペラを除く著名な作品すべては、プログラムのために書かれており、その多くが、明確に自叙伝体である。
ブラームス
バッハ、ベートーヴェンと共にドイツ音楽における三大Bと称される。父がコントラバス奏者だった影響で7歳からピアノを学び、10歳でステージに立つ。次第にピアノ演奏よりも作曲に興味を示したブラームスは1862年にウィーンを訪れ、活動の本拠地とする。1889年にエジソンの代理人の依頼で史上初の録音を行うが、翌年には意欲の衰えを感じ作曲を一時断念。しかしクラリネット奏者ミュールフェルトの演奏に触発されて創作意欲を取り戻し、再び数々の傑作を書き上げる。 1897年、胆嚢癌のため死去
ショパン
ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれており、幼い頃から様々な音楽に親しんでいた。わずか7歳で公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較されるようになる。ワルシャワ音楽院を首席で卒業。パリで演奏会を開き大成功を収め演奏家・作曲家として成功したショパンであったが、その健康状態から春夏はノアン,秋冬はパリで過ごすという生活を送る。1842年頃から体調が回復し作曲に集中。しかし再び容態が悪くなり、肺結核で39年の生涯を閉じる。
シューマン
7歳の頃からピアノで小さな舞曲を作曲しており、11歳で既に即興的に幻想曲や変奏曲を作っていた。法律家を目指して大学に入学するが、ピアノや作曲の勉強に時間を費やすようになり音楽の道へ進むことを決意。1831年に右手の指を故障したことでピアニストの夢を諦め、作曲家を目指す。1843年にはライプツィヒ音楽院教授としてピアノと作曲を教え始めるが、体調を崩しドレスデンへ移住。1850年にデュッセルドルフへ引っ越し、その後も意欲的に作曲を行うが、精神障害が悪化し、46歳で死去。
レスピーギ
音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受けて育つ。1899年にヴァイオリン演奏でディプロマを取得後、ロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者として赴任。その後ボローニャに戻り、作曲で2つめの学位を取得。1923年にはサンタ・チェチーリア国立アカデミアの院長に任命され、1935年まで教職に就いた。晩年は国内外で自作の上演のための演奏旅行に出ており、指揮者を務めたりピアニストとして伴奏を務めたりなどした。1936年1月までは作曲を続けていたが、次第に病に蝕まれ同年4月心臓病のため死亡。
ラヴェル
両親の激励でパリ音楽院に進学。1898年に公式デビューを果たし、強迫観念とも言える探求により1901年から1908年の間に多くの作品を生み出した。1909年、ロンドンでのツアーに参加し、自身が海峡のむこうで高く評価されていることを知る。第一次世界大戦勃発以降、創作活動は低調になるが1928年のアメリカ演奏旅行の成功により世界的に有名になる。1932年の交通事故でそれまでの記憶障害や言語症が徐々に進行していき、病状は悪化の一途を辿る。満62歳没。
ドヴォルザーク
9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始める。1857年にプラハのオルガン学校へ入学。卒業後はしばらくヴィオラ奏者として働く。ブラームスやチャイコフスキーと親しくなったことで活動範囲が広がり、各国で様々な賞を受けた後、アメリカの音楽院院長として招致。帰国後も多くの栄誉が与えられ、1895年からはプラハ音楽院で教鞭をとりつつ、交響詩の連作などを作曲。持病の悪化に伴い62歳で死去。
シューベルト
6歳の頃から父親にヴァイオリンを教わり始める。21歳の時にウィーンへと生活圏を移し、作曲活動に専念。多くの作品を生むが未完のものも多く、新たな音楽境地を切り開くための模索の痕跡を見て取れる。25歳で重度の梅毒に罹り、翌年は長期間の入院生活を送る。その後も活躍は決して衰えることなくピアノ曲などを多く生み出していくが、常に病気の影と共にあった。31歳でこの世を去る。
ドビュッシー
10歳でパリ音楽院に入学しピアニストを目指すが、1878年と1879年に2年続けて賞が取れなかったことでピアノ科を去り、ピアノ伴奏法のクラスに入る。一方で作曲にも挑戦しており、1884年、22歳でローマ大賞を受賞。1902年にはオペラの初演が大成功を収めるなど、印象派の作曲家として認められる存在となる。1914年に直腸癌を患い、闘病生活の中で作曲活動を続けるが、自宅療養中の1918年、55歳で世を去る。
ワーグナー
15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志す。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となる。その後は歌劇作曲家を目指すも芽が出ず苦しんだ。1848年、革命に参加したことで指名手配を受けスイスへ亡命。亡命期間中にも作曲を展開し、追放令が取り消された後も音楽活動を行った。1872年にバイロイト祝祭劇場の建築を開始。旺盛な作曲活動も並行して行いつつ、反ユダヤ的な論文を多数執筆。
メンデルスゾーン
6歳で母親からピアノの手ほどきを受け始める。幼少期から多作な作曲家でもあり、最初に出版された作品は13歳で作曲したもの。バッハの『マタイ受難曲』を自らの指揮により復刻公演したことで名声は一気に高まり、その後数年間ヨーロッパ各地へ演奏旅行を行う。1835年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任。1843年にはライプツィヒ音楽院を設立する。晩年は神経症の悪化と過労に悩まされており、38歳の若さでこの世を去る。
ラフマニノフ
4歳の頃からピアノのレッスンを受けており、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業。1897年交響曲第一番の初演が失敗に終わるも、1900年から作曲したピアノ大作2曲が大成功し、作曲家としての名声を確立する。1918年にアメリカに渡って以降は主にピアニストとして活動するようになり、ロシア出国後は作曲活動は低調になっていく。1931年スイスに別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とする。1942年には家族とともにカリフォルニアに移るが、翌年癌により死亡。
ストラヴィンスキー
20歳の時リムスキー=コルサコフに学ぶ機縁があり、これが本格的な作曲の入門となる。1910年、バレエ・リュスのために作曲した 「火の鳥」がパリのオペラ座で初演され、大成功を収める。第1次大戦後はフランス各地を転々とし、1939年第2次世界大戦によりヨーロッパを離れてアメリカに移る。1959年には77歳で来日し、日比谷公会堂,フェスティバルホールで演奏会を行い話題となった。1966年を最後として新しい曲は作曲されず、88歳で息を引き取る。
マーラー
15歳の時ウィーン楽友協会音楽院に入学。1878年ウィーン大学で作曲賞を受け、18歳で卒業。1883年にはカッセル王立劇場の楽長となる。23歳で指揮者として成功を果たし、ライプツィヒ歌劇場楽長、ハンブルク歌劇場の第一楽長、ウィーン宮廷歌劇場第一楽長、同芸術監督、ウィーン・フィルハーモニーの指揮者などを歴任しながら作曲活動を行う。晩年はアメリカとヨーロッパを行き来しながら作曲と指揮活動を行うが、50歳で敗血症により死去。
ヴィヴァルディ
幼少時から父親のもとでヴァイオリンに習熟すると共に、父親の音楽仲間から作曲法などを学ぶ。1703年からヴァイオリンの教師として教鞭を執り始める。1713年以降オペラの作曲に精力的に取り組み始め、ヨーロッパ各地を旅行してオペラを上演し人気を集める。長年の活躍によりイタリア本土と諸外国で名声を得ていたが、パトロンだったカール6世の崩御やオーストリア継承戦争の勃発に伴い上演ができない状況が続き、失意のうちに63歳で死去。
ムソルグスキー
6歳から母の手ほどきでピアノを始める。1856年プレオプラジェンスキー近衛連隊に入隊後、バラキレフの指導のもとで歌曲とピアノ曲などの習作を手がける。1863年以降は独学的に作曲を進めていくが、批評家たちには受けが悪く、強い批判を浴びる。実生活でも母の死から深刻なアルコール依存症に陥るほか、公務員としての生活は長く安定しなかった。1880年に公務員の地位を追われ、翌年には4度の心臓発作に見舞われ入院。42歳で死去。
ロッシーニ
8歳でボローニャに移り住み、ボローニャ音楽学校に入学。18歳でオペラ作曲家としてデビュー、2年後にはブッファ『試金石』がヒット作となり兵役を免除される。1824年、パリのイタリア座の音楽監督に就任。1839年、ボローニャ音楽院の永久名誉会長に就任、イタリアでの音楽教育に力を入れる。44歳でオペラ界からの引退。その後はサロンの主催や作曲の傍ら、料理の創作にも熱意を傾けた。63歳で病気治療のためパリに戻る。76歳で死去。
ヘンデル
父親には音楽の道へ進むことを反対されていたが、ヴァイセンフェルス公爵にオルガン演奏の才能を気に入られ、援助のおかげで音楽の勉強を続けることができた。1702年ハレ大学に入学。オルガン奏者として活躍し始め、作曲にも取り掛かる。イタリアで作品が認められたヘンデルは、25歳の若さで作曲家としての人気を獲得。1727年にイギリス帰化後は宗教曲を中心に作曲するようになる。1752年に失明し演奏活動だけは続けていたが、体調の悪化により74歳で死去。
リヒャルト・シュトラウス
幼いときから父親による音楽教育を受け、6歳ころから作曲を始める。ヴァイマール宮廷劇場第二楽長、ミュンヘンの宮廷歌劇場の第一楽長、1898年からはベルリン第一宮廷楽長を歴任し、オペラの指揮者として活躍する。その後ベルリン・フィルハーモニー音楽総監督、1919にはウィーン国立歌劇場総監督に就任。第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したことで裁判にかけられるが無罪となる。1949年、心臓麻痺で死去。
ショスタコーヴィチ
8歳の誕生日の後、母からピアノを習い始める。1927年、第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場、名誉賞を獲得。独裁体制下のソ連共産党からの批判を受け続け、1948年に発表されたジダーノフ批判により音楽院の教授職を免職されるなど、自由が極端に制限される時代を生きる。既に国際的に大作曲家としての評価を受けていたため、晩年は公的な批判にさらされる事もなく1975年に肺がんで死去するまで創作活動を続けた。
プッチーニ
18世紀から続くルッカの宗教音楽家の家系に生まれ、14歳で教会音楽家として近所の教会でオルガニストとなる。18歳の時『アイーダ』の上演を観てオペラに目覚め、1880年からミラノ音楽院にて学ぶ。3作目の『マノン・レスコー』で大成功を収め、当時のイタリア・オペラを代表する作曲家として名声を得る。ヘビースモーカーとして知られており、1923年末に喉頭癌であることが判明。翌1924年、治療のために滞在中のブリュッセルで手術後に合併症を起こし急死。
プロコフィエフ
母親から音楽の手ほどきを受け、5歳で作曲を始める。13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学。作曲科を修了した後も音楽院に在籍し、ピアノや指揮を学び続ける。ロシア革命を機にアメリカ亡命を決意、1918年に日本へ到着するもアメリカへ向かう船がなく日本に2か月ほど滞在。その後17年の時を経てソ連へ移り住む。ジダーノフ批判により作曲が制限される中、健康状態が悪くなり、1953年脳出血により息を引き取る。
グリーグ
6歳で母からピアノを習い始める。オーレ・ブルに才能を見出され、15歳から3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶ。24歳でクリスチャニア交響楽団の指揮者に就任。1874年に戯曲『ペール・ギュント』へ付随音楽の作曲依頼を受け、この成功によってヨーロッパ音楽界でも中心的位置を占める作曲家として評価される。42歳でトロールハウゲンに移り、数々の作品を生む。58歳頃から健康状態が悪化し始め、64歳でこの世を去る。
ガーシュウィン
12際の時に父親が兄のために買ったピアノがきっかけで、ピアノと和声を習い始める。15歳で商楽譜宣伝ピアニストとして楽譜出版社で働き始める。1920年代以降、作詞家となった兄アイラと組んで多くのポピュラー・ソングを送り出す。クラシックにも取り組み、1924年には『ラプソディ・イン・ブルー』を発表。「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価される。1937年、脳腫瘍のため昏睡状態となり、急逝。
サン=サーンス
3歳頃からピアノを習い、10歳でピアニストとしてデビュー。13歳になる頃にはパリ音楽院に進学。卒業後は教会のオルガニストを約20年間勤めながら多岐にわたるジャンルの作曲で数々の名作を残す。1871年、フランク,フォーレ,マスネ,ラロらと国民音楽協会を設立しフランス人音楽家の作曲・演奏活動を振興。78歳でフランスの最高勲章レジオンドヌールの最高位「グラン・クロワ」を受勲。1921年、アルジェリア旅行中に86歳の生涯を閉じる。葬儀は国葬で執り行われた。
バーンスタイン
家族に音楽的な環境はなく、父親の強い反対を押し切って音楽家の道を志しカーティス音楽院で指揮を学ぶ。1943年にニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任。1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼む「広島平和コンサート」を開催。1990年10月に指揮活動からの引退を表明、5日後に肺癌のため逝去。
ヨハン・シュトラウス2世
誕生時には既に作曲家として著名だった父親に影響を受け、音楽家に憧れて育つ。デビューコンサートでは指揮者,ヴァイオリン奏者,作曲家としての才能をみせる。1849年、父ヨハン1世が死去したことでシュトラウス楽団を自分の楽団に吸収したが、あまりの忙しさに重病に倒れることもあった。デビューから50年後の1894年にはウィーンで一連の祝賀行事が盛大に催された。1899年に肺炎であることが判明し、75歳でこの世を去る。
ヴェルディ
19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作。「オペラ王」の異名を持つ。生涯、生まれ故郷に強い愛着を抱いており、地元の音楽家プロヴェージから音楽の手ほどきを受けたのち、しばらく町の音楽監督も務めた。初期にはロッシーニやベッリーニの影響を受けた作風で、オーストリアからの独立運動を反映した愛国的題材の作品が多く、その後、人間の心理描写やドラマティックな表現が巧みになり、後期に入ると音楽と演劇の合一を重んじた。
サラサーテ
10歳の時スペイン女王の前で演奏を披露する。その後パリ音楽院で学び、13歳でヴァイオリン科の一等賞を得る。1860年代ごろから演奏家としての道を歩みはじめ、活動範囲は南北アメリカ大陸にも及んだ。彼は7月のサン・フェルミン祭の頃になるとパンプローナに里帰りし、町のためにコンサートを行った。町には彼の名を関冠した「サラサーテ遊歩道」があり、祭りとともに今も生き続けている。
スクリャービン
幼児期からピアノを始め、10歳で自ら望んで陸軍兵学校に進むが、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院に入学した。フリードリヒ・ニーチェの哲学に心酔し、超人思想に共鳴。その後は神智学にも傾倒し、この2つから音楽思想や作曲に影響を受ける。ロマン派の影響を脱し個性的かつ神秘主義的な作風から、自らの芸術を神智学思想を表現するためのものとして考え、「神秘和音」を特徴とする作品を残した。
シェーンベルク
調性音楽を脱し無調に入り、十二音技法を創始したことで知られる作曲家であり、指揮者、教育者でもある。8歳よりヴァイオリンを習い始める。その後チェロを独学で学ぶが、15歳の時、父が亡くなり、経済的に立ち行かなくなった彼は、地元の私立銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けていた。初期は後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになり、12音音楽に辿り着いた。
サティ
サティは、様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つ。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。また、厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられ、拍子についても自由に書き、拍子記号・小節線・縦線・終止線も後に廃止された。
パガニーニ
イタリアのヴァイオリニスト、ヴィオリスト、ギタリストであり、作曲家である。ヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、自作の練習曲で練習していた。技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前はほとんど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしており、死の直前に楽譜をほとんど焼却処分してしまった上、彼の死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。
フォーレ
幼い頃から教会のリード・オルガンに触れるうちに天性の楽才を見出された。9歳のときに入学したパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校にて教師としてやってきたサン=サーンスにピアノと作曲を師事した。作品形態は当時の流行を追わず、古典主義的な楽曲形式を採用した。調性においては、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。また、フランス国立音楽・演劇学校の作曲科教授も務めている。
バルトーク
ドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発し、ハンガリー民族やハンガリー王国内の少数民族の民謡をはじめとした民俗音楽の収集と科学的分析から、その語法を自分のものにしていった側面と、同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出した。作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。また、ドイツ・オーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。
ブルックナー
学校長兼オルガン奏者を父に持つ。幼少期から音楽的才能を示したブルックナーは、10歳になる頃には父に代わって教会でオルガンを弾くほどになった。11歳になる春に、本格的な音楽教育を受け、通奏低音法に基づくオルガン奏法や音楽理論を学ぶ。作曲技法的にはベートーヴェン、シューベルトの影響を、管弦楽法、和声法ではワーグナーの影響を受けていると言われる。ブルックナーの音楽はオーストリア的であり、大ドイツ主義の範疇でのドイツ的なローカル性を持っている。
ブルッフ
教師で有名な歌手であった母親から教育を受け、音楽、特に作曲に早くから才能を示したブルッフは、ブラームスと同時代にドイツとイギリスで作曲家、指揮者として活躍した作曲家である。ブルッフは魅力的な旋律を生み出すことに長けており、それはほぼ全ての作品を覆い、親しみやすいものにしている。また、「歌というものに対して不親切な時代における、ひとつの光明」として、ヨーロッパの様々なうたに興味を持ち、複数の作品で民俗的な要素を取り入れている。
ホルスト
父は音楽教師、母はピアニストだったこともあって、家庭環境は非常に音楽的だった。10代のころからすでに作曲を試みていたホルストは、ロンドンの王立音楽院に入学して音楽を学んだ。王立音楽院ではトロンボーンも学び、卒業後はオーケストラ奏者として生計を立てていたこともある。その後は、ロンドン近郊にあるセント・ポール女学校での音楽教師を務めた。代表作である組曲『惑星』もここで勤めている間に書かれたものである。
リムスキー=コルサコフ
幼児期より楽才を顕すが、12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学し、ロシア海軍に進んで艦隊による海外遠征も体験した。15歳からピアノを始め、17歳でバラキレフと出会ってから真剣に作曲に打ち込むようになる。また、海軍大尉の軍籍を持ちながらも、ペテルブルク音楽院の教授も務め、教育者としての評価も高い。華やかだが客観的で簡潔な作風と言われており、ロシアの民謡・文学を題材にした作品が多い。
ボロディン
幼少期はピアノの稽古を含めてすぐれた教育を受け、化学を専攻。サンクトペテルブルク大学の医学部を最優秀で卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張した。この頃に、ムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され、興味を持つ。作曲は30歳ごろまで正式に学んだことがなかった。作品は、力強い叙事詩的性格と豊かな和声が特色であり、情熱的な音楽表現や比類のない和声法は、ドビュッシーやラヴェルといったフランスの作曲家にも影響を与えた。
ビゼー
父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。9歳でパリ音楽院に入学。オペラなどの劇音楽を作曲の中心とし、19歳のときにローマ賞を受賞し、25歳のときのオペラ「真珠採り」でオペラ作曲家の地位を確立する。今でこそ有名であるが、代表的なオペラでもある「アルルの女」と「カルメン」でさえ当時の評判は芳しくなかった。
カリンニコフ
2つの交響曲といくつかの付随音楽、そして多数の歌曲を遺した。いずれの作品もみな、ロシア民謡の特徴に染め抜かれている。彼の作風は、おおむねチャイコフスキーに倣って西欧的な楽曲構成法を採っていながらも、旋律や和声法に民謡や民族音楽の影響が自明であるように、ロシア五人組からの影響がある。モスクワ楽派とペテルブルク楽派のいずれかに与するのではなく、その両方の伝統の美点を折衷した作曲家であった。
ヒンデミット
作曲家、指揮者であり、ヴィオラ奏者。その他にもヴァイオリン、クラリネット、ピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家であった。生涯に600曲以上を作曲。交響曲やオペラばかりではなく、オーケストラを構成するほぼすべての楽器のためのソナタを作曲した。初期の作風は後期ロマン主義や表現主義の影響が濃厚であったが、1920年代より新即物主義、新古典主義へ移行。モーツァルトの古典的な明瞭さよりもバッハの対位法を好んだ。
ブリテン
20世紀のイギリスを代表する作曲家、指揮者、ピアニスト。オペラやバレエ音楽、オーケストラ、室内楽、歌曲から映画音楽まで、数多くの作品を残した。作風は、同時代の作曲家にありがちな前衛的な音作りとは異なり、イギリスの保守性を上手く活用し、機能和声語法を突き詰めた。指揮者としても有能であり、比較的早いときから指揮者活動をしており、のちにイギリス室内管弦楽団を手兵として指揮活動を続けた。
芥川也寸志
幼いころにストラヴィンスキーに傾倒し、兄弟で毎日「火の鳥」や「ペトルーシュカ」などを聴きながら遊んでいた。作品は快活で力強い作風であり、クラシック以外にも、映画音楽・放送音楽の分野や童謡、団体(企業等)のCMソングや社歌なども手掛ける。また,日本作曲家協議会会長、日本音楽著作権協会理事長として音楽家の活動基盤の整備に奔走、新交響楽団などアマチュアオーケストラの支援活動,NHKの音楽番組「音楽の広場」での司会など、幅広い活動を行なった。
伊福部昭
ほぼ独学で作曲家となり、日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる作曲家。独特のリズム・低音楽器の多用・西洋音楽にない和声の使用などで、独自の音楽世界を築いた。彼の楽曲は、共通する旋律を、題材に従って構成しているため、「全部同じ」みたいな批判もあるが、旋律は物理的な動向を、編成と演奏で心理的な方向性を合成している様にも見える。
スーザ
マーチングバンドなどでよく用いられるマーチング用チューバのスーザフォーンを考案するなど、19世紀のバンド音楽発展に貢献。7歳のとき音楽の勉強を始め、楽器演奏のほかに声楽にも熱中していた。1880〜92年海兵隊の楽団長として活動した後、「スーザ吹奏楽団」を結成、マーチを演奏して世界各地を回り、成功を収める。第一次世界大戦中は海軍軍楽隊訓練所長として復役し、軍楽少佐にまで昇進。戦後は、また演奏活動を続け、吹奏楽者として世界的に人気を集め、マーチ王と呼ばれた。
ステーンハンマル
1887年から1892年までストックホルムでピアノ・オルガン・作曲を学び、1892年春にピアニストとしてデビュー。同年秋から翌年まで、ベルリンにピアノ留学。この頃からコンサート・ピアニストとして、熱心かつ積極的に活動を行う。当初の作風は、力強さと激しい情感を伝える重厚な作品であったが、1910年を境に新しい理想を成熟させ、それ以降は、「北欧風」の抑揚を目標に掲げ、効果なしでも成り立つような、「透明で飾り気ない」音楽を作曲しようとした。
ウェーバー
モーツァルトによるドイツオペラの伝統を継承し、自らの『魔弾の射手』によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成、そしてワーグナーへと流れを導いた作曲家。11歳で初めてオペラを作曲。オーケストラの配置を現在に近い形に改めたり、指揮棒を初めて用いた人物としても知られる。当時オペラはイタリアオペラの方が主流になっておりドイツオペラは誰の目にも留まらなかったため、自分が生まれた故郷を作曲に取り入れることによりドイツ人がドイツオペラに対して興味を持ち、そこから全世界へ発信していこうという気持ちが作品に表れている。
イベール
パリ音楽院の演劇科を経て20歳で音楽科に入学。第1次世界大戦に海軍士官として従軍後、同校に復学し,1919年カンタータ「詩人と妖精」でローマ大賞を受賞する。音楽は、新古典主義技法の上に、豊かな色彩感とリズムなど、洗練された清新な作風を持つ。作曲活動の傍ら、1937年から1960年まで在ローマ・フランス・アカデミーの館長を務めつつ、1955年から1957年までパリの国立オペラ劇場連合の監督を務めた。1940年には、フランス政府よりの依頼を受けて、日本の皇紀2600年奉祝曲として「祝典序曲」を作曲した。
ファリャ
母からピアノの手ほどきを受け、その後マドリードでホセ・トラゴにピアノ、作曲をペドレルに師事。30歳を過ぎてパリに渡ったのちに音楽家として本格的に活動した。パリで印象主義の影響を受け、マドリードに戻った後も、緻密なバレエ音楽、彩度の高い管弦楽作品、大胆な声楽作品、洗練されたピアノ作品などを作曲し、スペイン民族主義と印象主義を上手く融合させた。ファリャの音楽は強い民族的色彩を持ち、洗練された表現法も併せ持っている。
デュカス
14歳の頃より独学で音楽の勉強をはじめ、パリ国立音楽院に入学。ローマ大賞をのがして音楽院を退学しているが、1910年にパリ音楽院管弦楽教授に任命され、同じ頃エコール・ノルマルの作曲科教授も務め、1928~35年までパリ音楽院の作曲科教授に就任した。デュカスは孤独を愛し、作品は完璧を目指すため、1年に1作、あるいは10年を要したものもあったが、1920年代には大半の作品を破棄してしまい、今日残るのは20曲ほどと言われる。
シャブリエ
幼い頃からピアノや作曲に興味を示し、ピアノの腕前は天才といわれるほどであったが、父親の強い勧めによってパリで法律を学び、内務省に就職。公務員生活を送る傍ら、独学で作曲の勉強を続けた。1880年、ミュンヘンにて、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観たことで、音楽の道に専念することを決意。39歳で内務省を退職し、作曲家としての活動を本格的に開始した。作品は、いずれも独特のリズムに加え、闊達さとユーモアを感じさせる。
ルロイ・アンダーソン
軽快で諧謔性に富んだ曲調の管弦楽曲で知られるアメリカの作曲家。学者や教師として活動を続ける傍ら、ダンス・バンドのミュージシャンとして生計を立ており、アンダーソンの作品は同時代の大衆音楽に明らかに影響されている。特にリズム面においてタンゴやサンバ、ラグタイム、ジャズなどの影響が明らかである。叙情的で旋律中心の作品では、スコットランド系民謡の特徴であるいわゆるヨナ抜き音階かそれに似た民族音階が使われている。
コープランド
アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られる。14歳で本格的にピアノを習い始め、15歳から作曲家を志した。ジャズの語法を取り入れた不協和音の多い前衛的作風であったが、1930年代に入り,一般聴衆との接点を求め作風を転換。友人チャベスの指揮で初演された管弦楽曲「エル・サロン・メヒコ」で一躍名声を高め,親交の深かったM.グレアムのバレエ団によって上演された「アパラチアの春」などのバレエ音楽で米国作曲界の第一人者と目されるに至った。
プーランク
フランスの作曲家、ピアニスト。ピアノのレッスンは5歳から開始しており、8歳になって初めて耳にしたドビュッシーの音楽が持つ独自の音色に魅せられた。父の言いつけにより音楽学校へ通うことを許されず、音楽は大部分を独学で身につけた。若い頃に影響を受けた作曲家として、シャブリエ、サティ、ラヴェル、ストラヴィンスキーを、音楽家のベスト5として、モーツァルト、シューベルト、ショパン、ドビュッシー、ストラヴィンスキーを、生理的に受け付けない作曲家としてフォーレ、ルーセルの名を挙げている。
A.リード
200曲以上の吹奏楽を作曲したリードは、吹奏楽においては、20世紀を代表する音楽家の1人とされる。10歳からトランペット、15歳から作曲を学び、高校を卒業すると放送局の作曲編曲兼副指揮者の仕事に就いた。第二次世界大戦中に第529陸軍航空隊バンドに配属され、終戦後は、ラジオや映画、NBCやABCなどのテレビ番組のために作曲や編曲も手掛けた。1981年に東京佼成ウインドオーケストラの招きを受けて初来日。1988年からは洗足学園音楽大学客員教授を務め、また数多くのアマチュア楽団を精力的に指導した。
F.スパーク
ブラスバンドおよび吹奏楽のための作品で知られるスパークは、ロンドンで生まれ、10代の頃にピアノやヴァイオリンのレッスンを受ける。王立音楽大学(RCM)にてトランペット、ピアノ、作曲を学び、在学中にディプロマ(ARCM)を取得する。在学中にバンド音楽に興味を持ち、吹奏楽団で演奏する傍ら、金管バンドを結成し、双方の作曲を手掛ける。卒業後、BBCの委嘱による3作品で、欧州放送連合の"New Music for Band Competition"で3年連続優勝を果たす。
グリンカ
グリンカは、青年時代にイタリア、晩年にドイツに留学して、作曲理論を学んでおり、この間にはオペラよりも、器楽曲の創作を追究した。イタリア時代は、ハイドンやモーツァルトの器楽曲やロッシーニの序曲の様式で、数々の室内楽曲を作曲しており、ドイツ時代は、交響詩などの管弦楽曲が中心となっている。初めて真のロシア的音楽をつくったといわれるグリンカの作品は、ロシアのその後の作曲界に重要な影響を与えている。
ハチャトゥリアン
ソビエト連邦の作曲家・指揮者。 モスクワで音楽を学び、レーニン賞など多数の賞を受け、高い評価を受けた。 プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共にソヴィエト3巨匠の一人と称される。 作品の中でも、バレエ音楽「ガイーヌ」から抜粋された演奏会用組曲がとりわけ演奏機会が多く、中でも「剣の舞」については多くの機会で演奏されるため、広く知られている。民族的な伝統を大切にし、独自の価値観とエネルギーに満ちた作風が特徴的である。
オッフェンバック
ドイツに生まれフランスで活躍した作曲家、チェロ奏者である。オペレッタの原型を作り、「オペレッタの父」と言われ、音楽と喜劇との融合を果たした作曲家である。美しいメロディーを次々と生み出すことから、ロッシーニから“シャンゼリゼのモーツァルト”とも評される。痛烈な風刺、退廃的な快楽主義の要素が強いオペレッタは大衆に受け入れられ、爆発的な人気と共に幾度もの上演が行われる一方で、知識人からの批判もあったという。
マスネ
サンテティエンヌのモントー生まれ。パリ音楽院で教授を務め、多くの優れた作曲家を育成した。彼の作品はオペラで最もよく知られ、その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気があった。現在も特に「マノン」、「ウェルテル」、「タイス」は頻繁に上演され、主要なオペラハウスのレパートリー演目となっている。愛や生涯を、親密な雰囲気と叙情性のなかで描いた作品が多く、甘美なメロディーとフランス的なエスプリが特徴である。
ヴォーン・ウィリアムズ
グロスタシャーのダウン・アンプニーに生まれた。ルネサンス期のイギリス音楽や、民謡、教会音楽の研究・採集を通して独特の作風を確立し、イギリス人による音楽の復興の礎を築いた。彼のイギリスの田園風景を彷彿とさせる牧歌的な作風は、広くイギリス国民に愛されていて、日本では『惑星』で知られるホルストに比べて知名度は低いが、欧米ではホルストより高く評価されている。晩年には難聴に悩まされながらも、旺盛に創作活動を続けた。
吉松隆
東京都渋谷区生まれ。慶應義塾大学を中退後、一時松村禎三に師事したほかはロックやジャズのグループに参加しながら独学で作曲を学ぶ。「現代音楽」の非音楽的な傾向に異を唱え、調性やメロディを全面的に復活させた独自かつ異端の路線を貫き、作曲活動を展開する。プログレッシヴ・ロックの名作「タルカス」のオーケストラアレンジ、NHK大河ドラマ「平清盛」の音楽も担当し、クラシックというジャンルを越えた幅広いファンの支持を得ている。
ロドリーゴ
幼児期に失明したにもかかわらず、20世紀スペインにおける偉大な作曲家として大成した。スペイン・ロマン派の伝統を拡張するとともに、留学先のパリで培ったフランス印象派の様式に独自性を盛り込んだ作風が特徴といえる。本人はピアニストであり、ギターは演奏しなかったものの、数々の作品を通じてクラシック・ギターの普及に功があったとされ、とりわけ「アランフエス演奏曲」はスペイン近代音楽ならびにギター協奏曲の嚆矢とみなされている。
ヤナーチェク
モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。若いころから強い関心を抱いていたモラヴィア民謡の研究成果に基づいて、民族的要素を単に異国趣味的装飾としてではなく、西欧近代音楽の語法と融合し発展させた点で、きわめて独創的なものをもっている。器楽曲では、同じチェコ作曲家であるスメタナやドヴォルザークの影響に加えて後年印象主義的傾向がみられ、とくに管弦楽曲『タラス・ブーリバ』と『シンフォニエッタ』はよく親しまれている。
ニールセン
デンマーク出身の国民的作曲家。1865年フュン島のナアア=ルネルセに生まれる。フィンランドのジャン・シベリウスとは同年生まれである。6歳の頃、病にかかったニールセンへ母親がミニチュアヴァイオリンを与えたのがきっかけで音楽を始める。コペンハーゲン音楽院でヴァイオリンとピアノを学び、23歳のときに弦楽合奏のための「小組曲作品1」が初演され、見事成功をおさめる。6曲もの交響曲、フルート協奏曲などがよく知られている。
マスカーニ
イタリア出身のオペラ作曲家。1863年リヴォルノに生まれる。コダーイ・ゾルターンの最初の妻であるシャーンドル・エンマとは同年生まれである。リヴォルノ音楽院、にて研鑽を積んだ後、ミラノ音楽院にも進学するが、のちに退学し、オペラ団などの指揮者を務めた。27歳のときに作曲した『カヴァレリア・ルスティカーナ』が一幕歌劇コンクールにて驚異的な成功をおさめる。『友人フリッツ』『イリス』などがよく知られている。同時代の作曲家、プッチーニとはよく比較されていた。
ツェムリンスキー
オーストリア出身のオペラ作曲家。1871年ウィーンに生まれる。「キューピー3分クッキング」のテーマ曲として有名な『おもちゃの兵隊の行進』を作曲したレオン・イェッセルとは同年生まれである。ウィーン音楽院にてピアノを学んだあと、作曲をはじめる。門下であるアルマ・シントラーと深い仲にあったが、容姿が醜いと言われ破局。(その後アルマ・シントラーはグフタス・マーラーと結婚した。)代表作には『抒情交響曲』、交響詩『人魚姫』などがある。
スッペ
オーストリア出身の作曲家。1819年ダルマチア地方スプリトに生まれる。オペレッタの父と言われたオッフェンバックとは同年生まれである。幼少期よりフルートと和声法を学び、13歳の時には地元の教会でカトリック典礼のミサ曲を作曲した。オッフェンバックのオペレッタをウィーンで初めて手がけたことから、ウィンナ・オペレッタの父と呼ばれている。生前、200以上の劇音楽や、36のオペラ、オペレッタを残した。代表作には『軽騎兵』や『詩人と農夫』の序曲などがある。
グラズノフ
ロシア出身の作曲家。1865年サンクトペテルブルクに生まれる。フィンランド出身の作曲家、ジャン・シベリウスとは同年生まれである。幼少期よりピアノと作曲を学び、その才能はリムスキー=コルサコフにも認められていた。自身もペテルブルクの音楽院で教鞭を取り、ショスタコーヴィチも生徒であった。代表作にはバレエ音楽『四季』などがある。交響曲は第8番まで存在する。(第9番の創作へも着手していたが、「第9の呪い」を忌んだことで未完となった。)
ピアソラ
アルゼンチン出身の作曲家。1921年マル・デル・プラタに生まれる。吹奏楽で有名な作曲家、アルフレッド・リードやマルコム・アーノルドとは同年生まれである。幼少期よりジャズに親しんだピアソラは、17歳の時にタンゴに出会う。バンドネオン奏者として脚光を浴びたが、33歳のときにクラシックを学ぶためにパリへ留学した。帰国後は前衛的なタンゴ作品を創作し、一部の聴衆からは【タンゴの破壊者】と評された。代表作に『リベルタンゴ』『ブエノスアイレスの四季』などがある。
レハール
ハンガリー出身の作曲家。1870年コマーロムに生まれる。バレエ音楽『サロメの悲劇』で有名な作曲家、フローラン・シュミットとは同年生まれである。プラハにてドヴォルザークから教えを受けたレハールは、ウィーンでオペレッタの作曲家としてデビューした。今やシュトラウスの『こうもり』と並んで評されることの多い『メリー・ウィドウ』は35歳の時に作曲し、大成功を収めた。なお、同作品がアドルフ・ヒトラーの好みであったことから、ナチスとの関係に巻き込まれてしまった歴史がある。代表作に『メリー・ウィドウ』『微笑みの国』などがある。
久石譲
長野県中野市出身。国立音楽大学作曲科卒業後、作曲家・編曲家・指揮者・ピアニストとして活躍。有名なスタジオジブリの長編映画作品では、1984年公開の『風の谷のナウシカ』で初めて楽曲制作を担当して以降、約30年間で11の楽曲制作を担当した。久石譲ならではの音楽が作品を引き立て独特の世界観を創り出している。大人になってから見るジブリは小さいころに見たジブリとは変わったものが見えてくる。ぜひ、久石譲の音楽とジブリ映画をもう一度見てみてはいかがだろうか…。
ジョン・ウィリアムズ
アメリカ合衆国ニューヨーク出身。作曲家・編曲家・指揮者・ピアニストとして活躍。『ハリー・ポッター』や『スター・ウォーズ』など100作品を超える映画音楽に携わっており、50年以上ハリウッド映画音楽界のトップとして活躍しながら、クラシックを常に進化させ続けている。